「手術をすれば治ると思います。しかし、記憶は確実に失ってしまうでしょう。また手術で確実に治る保証もありません。」
そう医者が言ったのは1週間ほど前。木も凍りつくような冬の出来事であった。



賢い彼女
物部守谷


 僕の彼女はとても賢い。分からない事を聞けばすぐに答えてくれたし、いつだって僕のそばにいた。まあもちろん、たまに喧嘩をしたときとかにどこかへ行ってしまうこともあったけれど。そんな彼女がおかしくなり始めたのは付き合って一年と半年ほどたった頃。いつものように話しかけると返事がない。体を揺すってみても反応がないのだ。病院に連れて行こうと思ったけれど、5分ぐらいで彼女は目を覚ましていつもの笑顔で笑いかけた。そのときに病院に連れて行けばよかったのだろう。だが僕はいつもと変わらない笑顔に安らいでしまったのだった。
 その日から彼女はたまに意識を失ってしまうことがあった。それでも5分ぐらいでいつも意識を取り戻すから、疲れているのだと思った。確かに僕は彼女に頼りすぎていた。僕は彼女を休ませるために彼女に頼らずに寝かせておくことが多くなった。僕が彼女を寝かしつけるとき、彼女はいつも寂しそうに笑った。
 そうこう過ごしているうちにふた月が経った。彼女が意識を失うのは最初は5分であったがこのごろは10分ぐらいになっていた。近いうちに病院に連れていくよ、そう言うと彼女は大丈夫だと笑った。その笑顔はだいぶやつれているように思えた。けれど僕は賢い彼女に甘えてしまった。この頃仕事が忙しくなって病院に行く暇など無かったのだ。
 仕事もひと段落つき始めたころ、彼女が倒れた。5分経っても10分経っても彼女は目を覚まさなかった。30分ぐらいたって彼女は一瞬目を開けたがすぐにまた意識を失ってしまった。彼女はそれからずっと意識が戻ったり失ったりを繰り返した。
 慌てて病院につれて行ったのが一週間前。そして今日、病院から彼女が無事治ったことを知らせるメールが届いたのだった。
 病院に向かう。足取りは重たかった。手術に成功したとはいえ彼女には記憶は残っていない。あの楽しかった日々を彼女は思い出すことはもう無い。もうあの笑顔で僕に笑いかけてはくれないだろう。
 病院に着くとすぐに彼女と出会えた。虚ろな目で空を見つめる彼女。彼女の心にはもう僕はいない。もしかしたら今僕の目の前にいるこの娘は僕の彼女によく似た別人なのではないか、そんな思いが一瞬頭をよぎった。
 彼女は僕の方に笑いかけて言った。
「あなたは誰ですか?」
頭に電撃が走った。なんだ、やっぱりこの娘は彼女じゃないか。僕の賢い彼女なんだ。彼女の心には既に何も残ってはいないだろう。けれどあの日々は間違いなく、彼女の目に、口に、声に、体のすべてに残っていた。今までありがとう、僕の賢いスマートフォン。これからも、よろしく。




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